この年は、本校の創立20周年の記念事業が行われた年であった。前年の文化祭公演で、大教室での照明付き上演を成功させた私は、勢いに乗って、大教室の演劇教室化を押し進めた。というのは、ただの教室である大教室で、本格的に演劇を上演するためには、ステージを作り、照明バトンを張り、電源を引いて、照明や音響の機材を買うなど、かなりの高額な予算の必要なことであった。当時の演劇部の生徒会予算では、ライトが2,3台買えるかどうかくらいのものであった。学校から予算をもらうことも、当時の伝統のない一部活では無理なことである。
そこで、創立20周年の事業に絡んで、予算をもらうことを目論んだ。事業の中に、「PTA研修会」というのがあった。本来ならば、講師を呼んで文化講演会などをやる事業である。このPTA研修会の内容を「演劇部の公演を鑑賞する」ということにしてもらった。それで、本来ならば有料の講師を呼べるくらいの予算を、PTA研修会の会場作成費として大教室にもらった。この予算で、仮設ステージと、照明バトンを張った。前年の教壇を並べたステージと、針金でライトを吊った状態からは、画期的な前進であった。今にして思えば、不遜な企画だったが、これには、当時の実力者のT先生の大きなバックアップがあった。
T先生は、平成10年の秋に、私達の願いも虚しく、まだそれほどのお歳ではないのに亡くなられたが、私の教師生活でもっともお世話になった大先輩である。T先生は、ハンドボールというスポーツを日本に普及させた功労者の一人で、学生の頃は、学生bPの選手だったそうだ。当時は、本校のハンドボール部をインターハイに出場するほどの強豪チームとして率いていただけでなく、埼玉県の教員ハンドボールチームの監督として、毎年国体で上位に入るチームの指揮を執っていた。当時は40代後半の働き盛りで、酒を飲んで議論することの好きな大酒豪の超恐い先生だった。生徒指導部の
主任で、私は生徒指導部員だったから、行事の度に一緒に酒を飲んで議論し、特に創立20周年の頃は、連日のように、T先生と大酒を飲んで、よく働いた。T先生は、体育会そのものの硬派の豪傑であったが、私のような文科系の軟派の演劇青年のやることにも、親分的に応援してくれて、いろいろ面倒見てくれた。創立20周年実行委員会の中心でもあったから、PTA研修会の内容が「演劇部の公演を鑑賞する」という不遜な企画でも、親分的にバックアップしてくれた。校内のかなりの反発を買いながらも、大教室の演劇教室化が進められた背景には、T先生の隠然たるバックアップがあった。T先生が、当時の大管理職のY先生に進言してくれて、Y先生のお墨付きで大教室の演劇教室化が有利に展開していった部分もある。当時の私が、文化的に不毛の学校に、文化の灯を灯すためには、多少の抵抗ははねのけても、演劇部の活動場所を確保する必要があると考えていたことは否定しない。
この年の夏休み、T先生の発案で、戸狩合宿をやった。冬にスキー教室で使い始めた民宿「堀之内南荘」に泊まって、各部の夏季合宿をやるのである。ハンドボール部・剣道部・バレーボール部・陸上競技部・演劇部の5つの部が、参加した。今にして言えば、T先生を囲む一派の顧問の部が参加しただけで、たしか3年ほどで、「出張旅費が足りない」ことで、校内の批判が高まり、つぶされてしまったが、千曲川の流れる奥信濃の自然の中で、楽しい合宿であった。
創立20周年記念公演と銘打って、11月の1日から4日まで、計5回の上演を行ったのは、作・野瀬ときわ「怒りんぼのプロトン氏」一幕であった。
<STAFF>舞台監督:浅海 豊・酒巻 良子 装置:酒巻 良子 照明:磯貝 栄子・桑原 京子 効果:山田 進・滝島 洋子 小道具:高橋 昭子 衣裳:新井 淳子・梅沢 秋子 メーク:酒巻 良子・塩野 嘉子 製作:高橋 優子・岩崎 幸子
<CAST>お爺さん・プロトン氏:浅海 豊 お婆さん・ニュートロン:高橋 昭子 秀子:高橋 優子 少女・研究所員A:酒巻 良子 エレクトロン・Y国代表:山田 進 研究所員B・X国代表:塩野 嘉子 アナウンサー:滝島 洋子 研究所員C・Z国代表:新井 淳子
ヒロシマで死んだ少女、核実験、世界軍縮会議、自衛隊などをキーワードにして、反戦平和をテーマにした芝居だった。60年代の学生演劇の出身者として、当時の私は、演劇の上演にも社会科の教師としての問題意識を色濃く反映させていた。あまり関心を持たない部員達に、熱く反戦平和を語っていたものである。
<部員名簿>
3年:浅海 豊・山田 進・滝島 洋子・塩野 嘉子
2年:酒巻 良子(リーダー)・新井 淳子(サブ・リーダー)・高橋 優子・高橋 昭子
1年:岩崎 幸子・磯貝 栄子・梅沢 秋子・桑原 京子