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 1974(昭和49)年度
 この年は、我が演劇部が、埼玉県高等学校演劇連盟に加盟した最初の年である。この年から22年に及ぶ私の高校演劇コンクール人生が始まった。

 前年度に大教室という校内での活動場所を確保した私は、いよいよ校外の活動に討って出ることにした。とはいえ、部員は3年生2名・2年生4名の女子6名で、1年生はまったく入ってこない。我が劇部は、3学年が揃うことは少なくて、よく2年と1年だけとか、3年と1年だけとかの年があったが、コンクール初年度から、これであった。

 連盟に加盟して、川越地区に所属して、当時の川越地区を仕切っていたのは、川越商高の年輩の女性の顧問だった。なんでも劇団四季の幹部俳優である市村 正親氏が川商演劇部の出身だそうで、その頃若手実力俳優で売り出していた市村氏を大層自慢していた。

 連盟に入ってみると、川商でも川女でも、演劇の上演場所に苦労していて、文化祭の時とか、春の文化部発表会にやっと1日体育館を運動部から明けてもらって、体育館のステージで上演できる程度で、川越地区の春の研究会をどこで開こうかと頭を痛めていた。私は、新参者とは思えぬ図々しさで「ウチでやってあげましょうか」と申し出た。その上会場だけでなく、研究会の素材上演まで引き受けた。春の新入生歓迎公演は、2年生4名をCASTにして、作・内木文英「ある死神の話」を上演したが、その舞台を新加盟の手土産に研究会の素材として提供したのである。

 
 
作・内木 文英「ある死神の話」
 <STAFF>
  演出:酒巻 良子
  舞台監督:新井 淳子
  装置:岩崎 幸子
  小道具:桑原 京子
  メーク:梅沢 秋子
  効果:磯貝 栄子
  衣裳:新井 淳子

 <CAST>
  死神A:梅沢 秋子
  死神B:桑原 京子
  学生:岩崎 幸子
  長官:新井 淳子

  5月の中頃だったか、川越地区の春の合同研究会が、本校の大教室で開かれて、地区総会のあと、本校が素材上演して合評会が行われた。

 その頃、川越地区の演劇部は、川越女子高の天下だった。たしか、その前の年のコンクールでは、埼玉県代表で、関東大会に出ていた。他に、川商や山村女子高や星野女子高などがいたが、部員30名以上を擁する川女は、大教室の中央に陣取って、まさに川越地区に「川女様」として君臨していた。その恐れを知らない「川女様」の前に、合評会の素材となった本校の世間知らずの「可愛い芝居」は、情け容赦なく蹂躙された。私も、それまで他校の高校演劇など見たこともなかったから、あまりの川女の言い様に、「そこまで言うか」とカッとなって、「必ず、見返してやる」と心に期していた。その通り、やがて本校が川越地区に君臨することになっていき、「川女様」の天下は、この春の研究会がほとんど最後となったのである。


 
 
 

   この年も、高橋先生のハンドボール部などと一緒に、夏休みに、戸狩で合宿が行われた。朝から充実した稽古をして、夜のレクリエーションの時間に、、部員へのサービスのつもりで、仕込んでいった怪談話をしてやったら、私の迫真の語りが過ぎて、キリが引きつけを起こしてしまったのには驚いた。

 県大会に出ることになって、学校でも、合宿した。当時は、合宿所がなくて、農場管理室の宿泊室を借りて、合宿した。その頃、「コックリさん」というのが、流行っていて、稽古が終わって、寝る前に何気なく始めたら、やめられなくなって、結局朝が白むまで、やっていた。とても、恐かった。

 9月の川越地区発表会(コンクール地区予選会)も、本校大教室を会場として使用することになった。初めの内は、「狭い」とか「使いにくい」とか、文句を言っている顧問もいたのだが、川女や星野や山村など立派な体育館は持っていても、運動部が強くて、演劇部になど自由に体育館を使わせてはくれず、かといって公共ホールを借りれば、莫大な費用がかかり、予算の少ない演劇部では負担できず、やがて、自由に使うことのできる本校大教室が、否応なく川越地区高校演劇の拠点となっていった。後に、本校は、常に、県大会の大ホールで上演することを想定して芝居創りをするようになり、地区大会の大教室の狭い舞台と、県大会の大ホールの大舞台とのギャップに苦しむことになるのだが、そのことを考えなければ、高校生の地区大会の会場としては、手頃な広さの小劇場として、県内では、秩父農工高校のホールに次ぐ優れた学校施設である。

 前年度のページで、大先輩の故高橋 健夫先生に、大変可愛がっていただいたと書いたが、この年も、高橋先生には、大変お世話になった。本校の大教室で、川越地区の地区大会をやることになったが、大教室には緞帳がない。前年度の「怒りんぼのプロトン氏」は、緞帳なしで、照明の演出で、開幕・閉幕をやったが、コンクールでたくさんの学校が上演するには、緞帳がなければ不都合である。また、なんとかしてもらおうと高橋先生に相談に行ったら、「緞帳くらい、自分で作れ。手伝ってやるから」と言われた。それで、高橋先生に作り方を指導してもらって、まず、私が、池袋のキンカ堂という生地屋に行って、売れ残ったコーデュロイの生地を3万円で買ってきた。苦労を知らない連中が、あとで「色が変だ!」とか「配色がセンスがない」とか勝手なことを言い腐ったが、配色など考えられるわけがないだろう。あれは売れ残りの半端物を叩いて叩いて買ってきたのだ。これを、高橋先生が、被服室で、裁断して、部員にも手伝わせて縫い合わせた。それを滑車とロープで、緞帳にしてくれた。わずか、3万円ちょっとで、高橋先生が作ってくれた緞帳は、その後、20年近く、「色が変だ」とか、苦労を知らない連中にケチを付けられながら、動き続けた。本校の大教室から生まれた数々の名舞台は、故高橋 健夫先生の手作りの緞帳に包まれていたのである。改めて感謝申し上げ、ご冥福をお祈りいたします。

 作・弘前高校演劇部「コモンセンス」
 
 さて、秘かに川女への挑戦心を持って9月の地区大会に打ったのは、作・弘前高校演劇部「コモンセンス」であった。オープニングは、プレスリーの「ロックンロール魂」が鳴り響いて、ダンスシーンから始まる、当時としては軽快なアップテンポの清新な舞台になった。当時の高校演劇は、国語の先生が源氏物語や平家物語を下敷きにして書くような、格調高いがかったるい芝居が主流だったから、弘前の高校生が書いた高校教育を揶揄した台本と、当時のスーパーアイドル・フィンガー5のヒット曲など随所に色物を仕込んだ悪ふざけの演出は、逆に新鮮な若々しい舞台を創り出した。後に「国坂芝居」と異名を取る派手な色物の多い演出は、すでにこの年に生まれていた。

 リーダー(本校では、部長をこう呼ぶ)であり、6人のCASTの主演を務めた酒巻 良子(キリ)は、国坂劇部22年の歴史に、たまに現れる超高校級の演技者の第1号である。彼女の軽快な七変化の演技が、この芝居の基調を支えた。県大会の舞台でも、キリほどの役者は見られなかったほど魅力的であり、初加盟初出場の快挙は、酒巻 良子の演技力に負うところが大きかった。

 
 
 
 よく覚えていないが、初めから地区代表になれるなどとは考えていなかったと思う。ただ、「川女様」に一泡吹かせてやりたいとは思っていた。30人以上も部員がいて、みんな優秀な子で、ちょっと生意気で、そんな「川女様」に、ウチの「可愛い6人」で勝てたら面白いなとは思っていた。地区大会で見た川女の芝居は、古くさい、かったるい芝居だったが、でも、あれが高校演劇というものなのかなと思うと、それなりにしっかりしていた。やっぱり、川女なのかなと思っていた。ところが、なんとなんと、ウチがいきなり、初加盟初出場の快挙を成し遂げてしまった。

 県大会は、大宮駅西口の、今は、ソニックシティ・ビルが建っているところにあった埼玉県商工会館ホールで行われた。後には、埼玉会館や浦和市文化会館とか、さいたま芸術劇場とか、東京グローブ座にまで出たから、近代的な大ホールもたくさん知ったし、それからすれば、埼玉県商工会館ホールは、随分古くさい大したことないホールだったが、この時は、県大会に来たという興奮もあって、随分大きなホールに見えたものである。県大会でも、少しもビビルことなく、楽しく演じたが、なんだか、一笑に付されたような講評だった。そして、とんでもなくかったるくて眠ってしまった芝居が優勝したのにはたまげた。なんだこれはと思った。でも、この時は、「県大会に出たんだゼ!」ということで、私も部員も大いに満足していた。

 この芝居で、最後に落とすことができないのは、STAFFのことである。なにしろ、3年生2名、2年生4名の6名の部員をすべてCASTに使ってしまったのだから、少なくも照明と音響のSTAFFが必要である。しかも、その頃は、照明のオペレートには、フェーダーの調光器ではなくて、スライダックという変圧器を使っていたので、照明は2名いなければできない。音響1名と計3名のSTAFFを探さなければならなかった。その苦労話を酒を飲みながら高橋先生にしていたら、「ウチの部員、使ったらいいよ」と言って下さった。その年、ハンドボール部は、もう、一歩のところで、インターハイ出場を逃していた。「ウチの奴らは、県で一番力があるのに、お人好しばっかで、よその学校にインターハイ譲ってしまったんだよ」と高橋先生は悔しそうに言っていた。そこで6月末くらいには、現役引退したハンドボール部の新井 利和君・桶田 修平君・横田 高義君の3名が急遽STAFFになってくれた。オーディオマニアの新井君が音響、桶田・横田君が照明ということで、夏休みの合宿、地区大会、県大会、文化祭と11月頃まで、付き合ってくれて、半端な部員以上の働きをしてくれた。彼らの献身的な協力無しには、初加盟初出場の快挙もあり得なかった。深く感謝申し上げる。ちなみに、この三君とは、卒業後、JET SKI CLUBを作って、今に続く長い付き合いを続けている。

 
  作・弘前高校演劇部「コモンセンス」

<STAFF>
舞台監督:酒巻 良子・新井 淳子
装置:磯貝 栄子
小道具:岩崎 幸子
衣裳:桑原 京子
メーク:梅沢 秋子

  <友情協力>
     照明:桶田 修平・横田 高義
     音響:新井 利和

<CAST>
先 生:酒巻 良子
生徒A:新井 淳子
生徒B:岩崎 幸子
生徒C:磯貝 栄子
生徒D:桑原 京子
生徒E:梅沢 秋子



<部員名簿>3年:酒巻 良子・新井 淳子
          2年:岩崎 幸子・磯貝 栄子・桑原 京子・梅沢 秋子

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