春の公演は、作・雑賀 聖「にび色の砦」を上演した。3年生をスタッフにして、キャストは2年生中心に編成する。このころの顧問は、JET SKI CLUBにはまっていたので、スキーシーズンになると演劇部の稽古にはほとんど出てこない。 <CAST> 主婦:佐々木美枝 強盗:山村 聡子 借金取り:塩沢 幸恵 情婦:渡辺ひとみ サークル:増村 知子 押し売り:金井 秀之 <STAFF> 演出:鈴木まり子 舞台監督:山崎 慶子 メーク:斎藤貴代美 照明:田島 聖子・福田 幸恵 効果:丸山 薫・五十嵐則子 制作:松岡 栄子・中沢 香織 <協力> シアター・ジャック |
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<川越地区春季高校演劇祭の立ち上げ> この年のTopicsとして書いておかねばならないことは、今に続く「川越地区春季高校演劇祭」が産声をあげたことである。当時は、地区の演劇部がふれあう場は、秋のコンクール地区大会しかなかった。コンクールは、どうしてもどこが代表に選ばれるかという勝ち負けにこだわってしまって、地区の演劇部同士が仲良くなるという雰囲気ではない。なんか、ギスギスした雰囲気になりがちであった。そこで、当時川越南高の顧問で私と共に地区の常任委員をしていた吉岡隆治先生(少し前に、惜しくも亡くなられた)と二人で、「地区の演劇部が真に交流し合えるお祭りを作ろう」と語り合って立ち上げたのだった。 「第1回川越地区春季高校演劇祭」は、この年の5月10日(土)に、本校大教室において、本校の「にび色の砦」・川越南高の「面接試験」・シアター・ジャックの「情報」「改札口」の上演をもって、開催された。第2回は、5校に増え、第3回は、6校になり、1984年5月5日の「第5回」には、本校大教室から坂戸文化会館大ホールに会場を移し、1986年度の「第7回」では参加校が9校になったので、二日公演にして、年々盛んになって、1200の大ホールを二日間とも超満員にするほどの大イベントに発展していった。私が引退したあとも発展を続け、今年2005年5月3・4日には「第26回」が川越市民会館で開催されたのである。 川越地区春季高校演劇祭の成功がきっかけになって、埼玉県内各地に、コンクールとは違った地区の交流の場としての春季演劇祭が開催されるようになっていった。その意味でも、川越地区の活動は、埼玉県高校演劇の先駆けとなったのである。 |
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前年のコンクールで、3年連続4回目の県大会出場である。川越地区のtop校の地位を築きつつあった。もはや、県大会に出たことだけで喜んでいる時ではない。県大会の上位に入賞して県下に筑坂の名を知らしめなければならないと思っていた。 前年のコンクール作品「再会屋」は、カラフルに面白くやったが、「志が低い」と非難された。カラフルで面白くて作品としての芸術性も高いという台本を探さねばならない。当時の人気劇作家の一人であった清水邦夫の「楽屋」が見つかった。 しかし、作・清水邦夫「楽屋」をコンクール台本に選択するには、大きな問題があった。というのは、その年、我が演劇部としては珍しく部員は14名と多かった。しかも、3年生は6名もいた。こういう場合、普通の顧問なら、10名くらいがCASTの台本を見つけてきて、できるだけ多くの部員を表舞台に立たせてやろうとするものである。ましてや3年生にとっては、最後の舞台なのだから、いい役に付きたいと思っているものだ。 「STAFFになりたくて、演劇部に入りました」という部員がたくさんいる学校は、ほんとの演劇名門校である。演劇STAFFは知的・創造的な仕事で、高校生の頃からSTAFFになりたいと思っている人はプロ志向の演劇人だ。筑坂演劇部に入ってくるコは、そんなプロ志向はほとんどいない。「CASTにしてもらえないんだったら、やめます」というコがほとんどである。実際に、その理由で、つまり役が不満でやめたコは数えきれぬほどいる。 「楽屋」の登場人物は4人である。14名の部員の内、10名はSTAFFにならねばならない。しかも、6名の3年生の内、CASTに使うのは2名である。3年生の4名は、最後の公演だというのにSTAFFである。もしも、4名の3年生が「CASTになれないのなら、やめます」と言ったら、やめさせようと思っていた。そのくらいの覚悟を決めて「楽屋」を選択した。しかし、そんなことにはならなかった。CASTになれなかった3年生4名も、STAFFとして「楽屋」の千秋楽まで、しっかりと働いてくれた。そのことは、「楽屋」の成功の大きな要因であった。 私が顧問だった時代の筑坂演劇部史「汗と涙と根性と」を書き終えたなら、いろんなランキングを自分勝手にやろうと思うが、最優秀作品賞レースのトップ3に「楽屋」は必ず入ってくるだろうと確信している。そのくらい、我が劇部史に「楽屋」は燦然と輝いている。 −流れ去るものはやがてなつかしいものへ− <CAST> 女優A:斎藤貴代美 女優B:鈴木まり子 女優C:佐々木美枝 女優D:丸山 薫 <STAFF> 演出兼舞台監督:山崎 慶子 装置:金井 秀之 照明:山村 聡子・田島 聖子・福田 幸恵 効果:増村 知子・五十嵐則子 小道具:塩野 好子 衣裳メーク・渡辺ひとみ・松岡 栄子 鏡の声:山村 聡子 |
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モノトーンの抽象舞台。センターの鏡(姿見)が工夫されている。舞台デザインも製作もすべて顧問の手作りだが、椅子は、25年後の今日も、顧問の自宅の台所で使われている。そのくらい、しっかりとできている。 | 幕開き。暗黒の中で、鏡が光り始め、鏡の中から女優AとBが出てくる。鏡の中から出てくる、つまり亡霊なのである。 |
舞台は、チェーホフの「かもめ」を上演している地方劇場の楽屋。舞台女優としての栄光をつかむことなく死んでいった女優Aと女優Bの亡霊は、毎夜化粧台に向かって、あてのない出番を待っている。 | そこは、「かもめ」の主演・ニーナ役の女優Cの楽屋。出番前の台詞の稽古をしている。 |
生者の女優Cには、亡霊の女優A・Bの姿は見えない。Cは、一人で十分に稽古をして、気合いを入れて舞台に出ていく。 | Cが出て行った無人の楽屋で、亡霊AとBとの思い出話が始まる。Bは、わずかにあった華やかな役を自慢する。 |
Aも、負けずに、自分の演じた役を披露する。 | Aの当たり役は「股旅もの」だったらしい。キヨミねえさんの気っぷのいい啖呵が炸裂する。 |
亡霊二人の軽快な掛け合いの中に、満たされなかった女優の悔恨や哀切がにじむ。 3年生のマリコとキヨミが同級生の息の合った達者な演技を披露した。マリコは、3年連続で、県大会の舞台を踏んだ最初の部員となった。 マリコとキヨミは、最優秀助演女優賞レースに確実にノミネートされる名女優である。 |
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亡霊二人が盛り上がっているCの楽屋に、女優Dが訪ねてくる。女優Dは、枕を抱えている。実は、女優Dは、女優Cのプロンプター(舞台の袖で台詞を教える陰の役)だったのだが、報われない日々に疲れて精神を病み入院中なのだ。 | 生者のDには亡霊A・Bは見えない。楽屋で一人、ニーナ役の稽古を始める。 |
そこへ、出番を終えた女優Cが楽屋に帰ってくる。Dは、「私の役(ニーナ)を返してください。かわりにこの枕をあげます」と迫る。Dは、精神がおかしくなっている。 | 女優Dは、1年生のカオル。背の高い美貌の大物新人。性格もおっとりしたお嬢様タイプで、精神を病んだ新人女優の役所にはまっていた。 |
女優Cは、2年生のミエ。我が劇部史上、大人の女性を演じることのできる数少ない本格派女優であった。最優秀主演女優賞レースの有力候補であることはまちがいない。 | 「私の役、返してください」と迫るDに、Cは自分がどれほどのものを犠牲にして今の地位を築いたかを語り続ける。 |
狂ってしまったDは、それでも執拗に「役を返してください」と迫る。 | 「やめてよ!」と切れてしまったCは、化粧台にあったウイスキーの瓶でDを殴ってしまう。服部演出得意のストップモーションとアカリの急転による衝撃シーン。 |
ふらっと立ち上がったDは、「病院に帰ります」と楽屋を出て行く。 | 「小娘になめられてたまるか。どれほど苦労してきたと思っているんだ」という感じの長台詞が続くが、このシーンのミエの迫力は絶品である。 |
「そりゃいろんなものを犠牲にしたさ、でもすべては納得ずく・・・・・・・・これからもあたしは納得ずく・・・・・・・戦いは果てしなく、鏡のなかのわが戦士・・・・・・」 | 女優の道がいかに厳しいものかをしゃべり続けるCの後ろの鏡が光り、鏡の中に女優Dが浮かび上がる。つまり、Dは、打ち所が悪くて死んでしまったのである。 |
決意を述べて、再び舞台に出ていく女優C。それを見送るA・BとD。 | 「こんにちは、わたしも仲間に入れてください」。「あんた、見えるの?」。 |
Dを加えた、亡霊三人。「夜は、長いわよ!」。「・・・・これからあたしにも・・・・長い夜が来るんですね・・・・」 | 「じき、なれるわよ・・・・・」 |
亡霊三人は、「三人姉妹」の稽古を始める。 | ラストシーン。亡霊三人の姿は消えていき、鏡がいっそう強く輝きを増す・・・・・・。 |
今、こうして振り返っても、わが演出史に燦然と輝く「楽屋」であるが、県大会では、第3位であった。初めての上位入賞であったが、私も部員達も少しもうれしくなかった。 県大会の初日に上演した本校の「楽屋」は、関係者の間で高い評価を得ていた。自分たちでも、手応えを感じていた。一通り見た他校の上演も驚くほどのものはなかった。私も若かったし、野心的で自信家だった。二日目の成績発表の頃には、すっかり優勝を確信していた。が、ふたを開けてみると、3位だった。高校演劇のコンクールは、1位、2位、3位までを順序付けし、4位以下は同列という表彰なので、3位は、十分に上位入賞であるのだが、このときは、3位という低い評価に愕然とし、憤懣やるかたない思いで学校の合宿所に帰り、みんなで泣いた。 このときに1位になったのが、秩父農工高の作・別役実「天才バカボンのパパなのだ」であり、これをもってデビューしたのが、私の劇部顧問生活を通してのライバルとなり、やがてはよき友となった若林一男先生であった。後年、彼と親しく付き合うようになって、「80年は、農工の天才バカボンよりも筑坂の楽屋が上だった」と私が力説したら、若林先生も意外に素直に「そうだよな」と同意した。社交辞令だったとしても、私はうれしかった。 埼玉新聞の劇評子も劇評の一節に次のように書いている。 「筑波大附属坂戸高校は、よく訓練された演技陣を中心に辛みの効いた劇に仕上げた。10校中の3位である劇団埼芸賞となったのは、むしろ評価が低すぎたのではないかと思わせるほどである。」 慎重な表現を旨とする新聞記者がこう書いているほどに、「楽屋」に対するロビーの評価は高かったということである。今、思い出しても、悔しさがこみ上げてくる。 <「炎熱マラソン」の始まり> それからこの年のTopicsとして、もう一つ、書いておかねばならないことは、やがて我が部は、基礎練習(劇部用語でキソレンという)としてマラソンを取り入れるのだが、それが始まったのがこの年の夏だった。この年は、学校のグランドを走る程度だったが、年度を経るごとにこのマラソンはハードになっていき、やがて、学校からロードに出て、3km・4km・5kmの3種類のコースができあがり、夏休みの午前の炎天下に汗をまき散らせて走るので、「炎熱マラソン」と名付けられて、我が部の伝統になっていった。昔の養護教諭の先生が、「真夏にマラソンは危険だからやめた方がいい」としばしば忠告してくれたが、耳を貸さなかった。事故を恐れる今の風潮ではできないことだが、我が劇部では「炎熱マラソン」を走ることが、「国坂根性」の証だった。 なぜ、「炎熱マラソン」にこだわったのかというと、なにしろ、演劇部というのは、世間からは、チャラチャラした軟派なヤツらと見られがちである。ちょっと気を許すと、そんな軟弱なヤツらが入ってきがちだった。しかし、演劇というのは、3、4ヶ月くらい稽古して、やっと本番を迎える。本番近くなって、「体調が悪い」だの「仲間とうまくいかない」だのと文句を言い出して「やめさしてください」なんて言われたら、スポーツと違って、選手交代が効かない。3、4ヶ月、必死に稽古してきたものが、一人の軟弱者でフイになってしまう。ましてや、いつも少人数でギリギリでやっている我が部では、一人の軟弱者の存在も許されなかった。「どんな苦しいことにも耐えて、部員としての責任を果たすか?」という意味の踏み絵が「炎熱マラソン」だったといえる。 私も、夏休みには、部員と共に汗をまき散らして走った。俺についてこい!という青春ドラマのような顧問だった。 |
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<部員名簿> 3年:鈴木まり子(リーダー)・山崎 慶子(サブ・リーダー) ・渡辺ひとみ・増村 知子・斎藤貴代美・金井 秀之 2年:佐々木美枝・山村 聡子 1年:丸山 薫・五十嵐則子・松岡 栄子・田島 聖子・福田 幸恵・塩野 好子 |